八尾漆工芸   お仏壇と漆のことなら お気軽にお問い合わせ下さい 電話:072-959-5333 FAX:072-959-5336 info@urushikougei.jp

お仏壇・仏具

大阪仏壇の歴史

なにわの町は日本最古の仏壇どころ

 家庭に仏壇を安置し、仏像を祭り、読誦〔どくしょう〕用のお経を備えることになったルーツは「日本書紀」天武天皇14年(685年)三月の条に、「壬申〔みずのえのさるのひ〕に、詔〔みことのり〕したまはく諸国に、家毎に、仏舎を作りて、乃ち〔すなはち〕仏像〔ほとけのみかた〕及び経を置きて、礼拝供養せよとたまふ」とあることぐらい、あなたは既にご存知である。天皇が詔を発して「家毎に仏壇を安置し、仏をまつり礼拝せよ」とは大した事、重みがある。

 だが、残念ながらこの条の文言だけでは、どこで、どのように仏壇が作られることになったかは、わかわない。その点、「日本書紀」敏達天皇6年(576年)冬十一月の条に、「庚牛の朔に、百済の王、還使大別王等につけて、経論千巻、併せて律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工、6人を献る。ついに難波〔なにわ〕の大別王の寺に安置らしむ」とあるのは具体例であり、仏像や仏壇が作られるに至る経緯を推理するに十分である。

 即ち、仏像を作る仏師や寺を建てる大工、細工師たち日本への仏教伝来から四十年たらずの五七六年、百済との海上交通の港であった難波の津(港)の三津浦(今の三津浦寺町あたり)へ上陸し、「大別王の寺」に住まわせた・・・と読み取れる。大別王が何者か、大別王の寺が、いつ、どこにあったかは、両者の名称が「日本書紀」のこの条のみしかみえないため不詳だが、すくなくともこの記述によって、大阪が日本最初の仏壇製造地と言い得る可能性は、大いにある。しかも大阪には大日本仏法最初四天王寺の石碑が建つ四天王寺もあることを思えば、仏壇製造にかけての大阪の優位性は動かし難い。事実、四天王寺は聖徳太子によって法隆寺より早く建てられたお寺。それは推古天皇(598年)であるとされ、建立に当たっては百済から四人の技術者を迎えて、上町大地〔うえまちだいち〕に住まわせたと、記録は伝える。

 四天王寺という大寺の建立が終われば、技術者と労働力はその他の寺院や家庭用の仏像、仏壇作りに流れていくに違いない。以来、ざっと百年、公卿〔くぎょう〕らの私邸や、一部の庶民の家庭にも仏壇が安置され始めた現状を考慮に入れて、天武天皇のあの詔は発せられた。それでなくては「家毎に仏壇を安置し、仏をまつり礼拝せよ」との文言が、あまりにも唐突すぎる、と私は思う。

 敏達天皇六年から数えれば、平成20年の今年は1433年目。四天王寺建立の推古天皇から数えても1416年目。長い大阪と仏壇の歳月である。
敏達・推古天皇の時代のことはさておき、次なる仏壇ブームは蓮如上人による石山本願寺の創建による。それは、明応年間であったから15世紀末、現在の大阪城あたりに建てられた石山本願寺を中心に寺内町が構成され、遠近の老若男女が群参し、仏壇・仏具の需要が高まったためである。

 さらに百年下がって、船場に北御堂(本願寺派)、南御堂(大谷派)が出現し、徳川幕府のキリシタン禁制にともなう檀家制度の確立などで、仏壇関係者は大阪のあちこちに増えていく。大阪町奉行所より発せられた「お触れ及び口達」を調べてみると、既に元禄元年には仏壇についての御触れがしばし目につく。

 享和3年(1803)正月17日の口達触れには、「このたび奉幣使ご通行に付き、お道筋町の内にありそうろう仏壇屋・位牌屋・並びに葬儀貨物屋、右の類商売屋の向きは、店先屏風にて囲み置き、お目障りに合ならざるよう、町内にて篤と申し聞かすべくそうろう事」とあるのは面白い。当時すでに「仏壇屋」とか「位牌屋」と呼ばれる店があったことや、葬式を演出する「葬具屋」があったことを知る上で貴重な資料。大阪府中之島図書館の郷土資料のなかから見つけたもの・・・。

※上記の文献は、大阪宗教用具商工協同組合編集「大阪仏壇の歴史」、名古屋西別院誌「2002年8月1日号」より編集されました、「平成20年度 大阪宗教用具商工協同組合」の資料より抜粋しております。※ホームページの性質上横書きの漢数字(年号など)が見づらいため算用数字を用いております。※難しい読み方の感じにはルビ(ふりがな)を言葉の直後に記載しております。